少しばかり寒くて、冷たいトイレの鏡を見つめて、私は一息をついた。
口の中は鉄の味がして、それを洗面台に吐き出すと、血が飛び散っている。
頬が通りで痛むと思ったら、ナイフで傷つけられ、紅色の線が出来ていた。
そしてその線から、鮮血が流れている。
頬の傷だけではない。
体の節々が痛い。確かめはしないが、きっと痣の一つや二つは出来ているだろう。
これらの傷はきっと……
罰だ。
光の世界で生きることを望み、この場から逃げ出そうとした、裏切り者への制裁。
第一に切り傷。
第二に体を蹴る、顔を殴るといった暴行。
第三は恐らく……。
あまり考えたくないが、必ず待っているのは『死』という、この場らしい末路だ。
矢車菊の花言葉
ずっ、ずっ、と、廃校になった小学校の廊下を、右足を引きずりながら歩く。
窓は全て、鉄格子がはめられ、とても逃げられたものではない。
いや、鉄格子がなくとも、ここは4階だから、どのみち逃げることは出来ない。
私は末路を覚悟した。
「よお、嬢ちゃん」
後ろから、野太くて、場違いな程明るい声。
思わず振り向くと、茶色の髪はオールバック、薄汚れた茶色のコートに、真っ黒のサン
グラス。あからさまに胡散臭い風貌だ。
なんというか――怪しい。
「アンタ誰」
「ん〜、俺ぁ風の又三郎といったところか」
窓に取り付けられた鉄格子を回しながら、男は軽い調子ではははと笑う。
「この場に何の用? ここはアンタの来る場所じゃないよ」
ふっと視線を逸らす。
「お前、ここで死ぬつもりなんだろう?
どうせ死ぬんなら、ここから連れ出してやる。
この、血生臭い場所からよ」
からっと笑うと、ひょいっと担ぎ上げられた。
男の肩に、私の胸が当たる。
「ちょっ……! 離して!!
ドスケベ、エッチー!!」
私はバタバタと暴れ、抵抗するが、男は離そうとしない。
「しっかりしがみついてねぇと、落っこちるぜ」
大男はそう言って、「ちょ、ここは4階」と言う前に、窓から飛び降りた。
降りながら、
「確か、名無しだよな?
名前つけてやるよ」
これが、私とあの男の出会いだった。
がくんっと頭が落ちて、どごっと硬いものにぶつかった瞬間、ぼんやりと目を開けた。
どうやら、机に左腕を置き、その手に頭を乗せる形で眠ってしまっていたらしい。どご
っとぶつかった硬いものは、おそらく机だ。
「あっ、起きましたか。いのりさん」
店に飾るであろう、青くて 矢車のような花が咲いた植木鉢を持った青年が声をかける。
名前は土庭 翠(つちにわ すい)。
若干20代で、この喫茶店のオーナーを勤めていて、私の事情を知る人物だ。
ぐしぐしと顔を拭いながら、ん〜と頷く。
「寝てたんなら起こしてくれたって良いじゃないですかぁ……」
起きて早々、口を尖らすと、
「だって、気持ちよく寝ていましたから。
起こすのも悪いかと思いまして」
――気持ちよく寝ていましたから。
そういえば、気持ちよく眠れたことなんて、一度もなかったっけ。
私は内心で苦笑する。
ここに来てから、6年の月日が経つ。最初のうちは、あの閉鎖された空間によって刻ま
れた心の傷が根付いて、不安と恐怖に怯える毎日だった。
けれど、翠さんや、この場にはいないが、翠さんの恋人で従業員の奈々さん、近所のス
ーパーでレジを担当してて、この店の常連である藤城さんと、孫娘のりこちゃん。
たくさんの人たちに支えられ、私はこの場にいる。
そして、私をあの場から救い出した王子様……というには粗野で荒くれ者な男は、どこ
をほっつき歩いているんだか、この店に来てから、一回も逢っていない。
あの人がくれた名前は「桜和 いのり」。自分でも気に入っている。
右の頬に、まるで爪で引っかいたような、三本の切り傷を持ち、粗野で、馬鹿力が自慢
の大男。
けれど、彼がいなかったら、私は既に死んでいたし、何よりも。
(この生活が一番幸せだって、気づかなかったよね……)
「ねえ、翠さん。その花、なんていうんですか?」
「これは、ヤグルマギクっていう花。
つい先ほど、お客さんがいのりさん宛に持ってきたんですよ」
……私宛?
「少し前に、「風の又三郎さん」が、店に来られたんです」
――風の又三郎。
その言葉に、まどろみかけた私の意識は、急に覚醒した。
「その人はなんて言ったんですか?」
私の勢いに驚いたのか、翠さんはびくっとしていたが、
「いのりは元気にしてるか?と聞いてました。
「ええ、元気にやっていますよ」と言ったら、「そうか」と呟いて、この植木鉢の花を託
していきました」
と答える。
どうやらこの、ヤグルマギクって花は、あの大男からの、せめてもの贈り物らしい。
「何で、ヤグルマギクなんだろ……」
私はぼそっと呟く。
らしくない贈り物だし、花を贈るのなら、スイートピーとか可愛らしい花を贈って欲しい。
「きっと、花言葉ですよ」
「花言葉?」
ええ、と翠さんは頷いた。
「ヤグルマギクには、「幸福」っていう花言葉があるんですよ。
きっといのりさんに「色々大変だった分、幸せになれよ」って伝えたいんだと思います」
それを聞いて、私はくすっと小さく笑った。あの図体でかい大男が、花屋で花を選んでい
る様子がありありと浮かぶ。
花言葉で選んだかどうかは、それは本人に聞かないとわからないものの、このプレゼント
は嬉しかった。
(幸せになれよ、じゃなくて、もうなってるわよ。
ありがとね、風の又三郎)
日差しを受けたヤグルマギクは、開けられた窓からの、春のそよ風に揺れていた。
|