膝まである水色の長髪を揺らしながら、女は森へと走っていた。
女は人間ではなかった。
背中には大きく、純白の翼があったから。
森に向かったのは、今追いかければ、片恋の男に追いつくかもしれないからだ。
急がなければ、彼は行ってしまう。
思いを伝えないまま……。
貴方の未来に花を
「天使は、人間に恋をしてはいけない」。
女が住む村の掟の一つだ。
この掟の理由は、寿命だった。
人間の寿命は、天使にとってあまりにも短い。
天使は人間より長命なのだ。
恋をすると、この後は、愛する人が先に逝ってしまう。
掟を作った遠き先祖は、それを恐れたのだろう。
あるいは、その先祖も恋をして、悲しい別れを経験したからか。
ある日の事。
「こんにちは」
宿屋に入ってきた人間の男は、女にそう挨拶をした。
端正な顔立ちに、穏やかな表情。
深い青色の瞳は、森の中にある静かな泉を思わせる。
身なりは軽装で、どこかの旅人らしい。
年齢は自分と、あまり変わらないように見える。
「こ、こんにちは」
人間の男がこの村にやってくるのは、とても久しぶりだった。
「何泊していかれますか?」
カウンターの上に置いた記録帳を取り出す。
「1泊で」
「1泊ですね。
わかりました」
さらさらと、記録帳に書き込んでいく。
視線も自然と記録帳へと向けられる。
「少し時間あれば」
男の声に、女は顔を見上げた。
「この村を案内して欲しいんだ。
勤務中だろうけど……いいかな?」
そういえば、と女は思い出す。
この村は3つのエリアに分かれていて、それぞれ広いのだ。
三角形になるように位置しており、真ん中には大きく、中が透き通って見える泉がある。
「はい、お任せください」
女はすんなりと了承した。
宿屋の仕事は、受付をし、部屋に案内するだけでない。
奥にいる母に、受付を任せた。
男と女は、村の中央に位置する泉へたどり着いた。
「この村って、天使しかいないんだね」
ここに来る際に、羽を使って空を飛び、談笑している中年男性がいれば、高く長い木の
枝に止まって、果物を頬張る少女達の姿があった。
彼らは人間にはあまり興味を示していない。
「ここは天使の村ですから。
人間の方が来るのは、とても珍しいんですよ」
「そうなんだ。
でも、何でここには天使しかいないんだい?」
「昔は、人間も存在していました。
けれど、人間は寿命、或いは不治の病で命を落としました。
私達天使は、長命ですから、いつの間にか天使しかいなくなったのです」
「長命って、どれ位なんだ?」
長命という言葉に、青年は驚き、そしてどれ位生きられるのかを訊いた。
「亡くなった祖母から、天使は200年近く生きられると聞きました」
「200年。気が遠くなるなぁ……」
青年はそう苦笑した。彼は人間だから、「気が遠くなる」と言えるのだ。
「人間のあなたから見れば、気が遠くなる話だと思います。
でも、私達天使には、ほんの一瞬です」
女はため息混じりに言う。
「以前、この村に来た男性がいたのです。
その男性も人間でした」
以前訪ねてきた人間の旅人の男は、2泊で宿泊した。
どこかの冒険者といった風貌だが、子供の心のまま大きくなったというような、大柄な
男だった。年は、自分より2、3つ上に見える。
2泊した後に、この村が気に入ったのか、「またここに立ち寄るよ」と言った。
そして4年後、帰ってきた旅人の男は、老人になっていた。
天使から見れば4年なのだが、人間は60年も経っていたのだ。
よぼよぼの老人になった彼は、「俺も天使になりたかった」と言って死んでいった。
「天使になりたかった……か」
女の話を聞いた男は、ポツリと呟く。
「旅人さんは、どう思いましたか?
この話を聞いて」
女はおずおずと訊ねた。
天使と人間。
外見はそんなに違いは無い(といっても、羽があるか否かくらいだ)が、年月に関する
感覚は違うだろう。
「その旅の人、何で天使になりたかったんだろうな……って思ったんだ」
ドクンと心臓が鳴る。
「君たちを否定してるわけじゃないんだ。
でも、僕なら、「天使になりたかった」とは思わないと思う」
「どうしてですか?」
女の疑問に、男は正面を見据えて、口を開く。
「天使から見れば、人間の寿命って短いって思う。
でも、短いからこそ、死ぬまで一生懸命生きようって思うんだ。
そりゃあ、天使になれば、長命になるさ。
でも、大切なのは、「長命になる」よりも「限られた時間の中で、どう生きていくか」っ
て事なんじゃないかと思うんだ」
大切なのは、「長命になる」よりも「限られた時間の中で、どう生きていくか」って事な
んじゃないかと思うんだ。
男の言葉、そしてふと見せた男の微笑み。
そしてこの瞬間。
女は、男に恋をした。
次の朝。
女は青年が寝泊りしている部屋の入り口に立っていた。
高鳴る胸音を強引に押し込め、右手で扉をコンコンとたたく。
……。
………。
…………。
何の反応もない。
控えめに「失礼します」と扉を開けた。
誰も居ない。
確かに彼は存在していた。
だが……。
この客室にはまるで、最初から誰も存在していなかったみたいだった。
(今から追いかければ、追いつくかもしれないわ!)
女は部屋を出て、走り出した。
そして今に至る。
だから走った。
早く森に行かなければ。
外から来た旅の人は、森を通らなければ、出られないのだ。
今なら間に合う。
女の手には、朝露が滴る、青く光る純白の花。
この花は、渡された者の未来を明るく照らしてくれる、不思議な花。
「はあ……、はあ……」
途中で息が苦しくなり、足を止める。
荒い息を吸っては、吐く。その繰り返しをしばらく続けた。
その後もひたすら走った。
だが、着いたのは森の出口。
男は、もう行ってしまったのだ。外の世界に。
髪と同じ色の瞳から、涙がこぼれる。
それは、彼女の手にある花に当たり、そして滴り落ちた。
女は涙をぬぐうと、再び元来た道を歩き始めた。
向かう先は、願いを外へ届ける泉の所。
泉は、各村に囲まれるように存在していた。
そこは、常に薄暗く、時折光が差す。
女は花に祈りを込めるように、そっと瞳を閉じた。
泉の水面はとても緩やかで、木々も穏やかに揺れている。
その音を耳で感じ、そっと瞳を開ける。
“ このお花を、あの人へ届けて ”
そして花を水面に落としたのだった。
この後、天使の村に戻ってきた青年の手には、光り輝く花があった。
約束通り、帰ってきたのだ。
青年は水色の長髪の娘を探したのだが、娘の行方を知るものは、誰もいなかった。
|